都心のなかでも、感度の高い大人たちが集まる場所として知られる恵比寿・代官山エリア。自身のスタイルがあり、洗練された目を持つ大人たちに支持されるパティスリーが『Les Années Folles(レザネフォール)』だ。
菊地シェフ:
33歳で独立しようとしたときにお金があんまりなくて、郊外だと広い物件ばかりだし、条件的に合うのが都心の小さい物件でした。
どうせやるなら有名になりたい、一等地で勝負したいという想いもあって、表参道、西麻布、六本木、麻布十番を中心に物件を探したのですがなかなか見つからなくて。それで、たまたま恵比寿・代官山エリアを歩いていたら、今の場所が空いていたんです。
恵比寿にはレストランやビストロもいっぱいありますし、舌の肥えたお客さんも多い。そんなレベルの高い街でお店をやりたいと思いました。
店名の「Les Années Folles(レザネフォール)」は、“狂乱の時代”とも呼ばれる1920年代のフランスを指す言葉だ。
第一次世界大戦が終わり、欧米各国の経済は国の再建を旗印として活性化。自由と活気に満ちた繁栄の時代で、生活様式やスタイルがクラシックからモダンへと移行していた時期でもあったという。
そんな時代の流れや出来事が、フランス菓子の伝統と革新を表現したいという菊地シェフの世界観にはまった。
菊地シェフ:
僕の考える『レザネフォール』は“温故知新”。クラシックなことをやりつつ、モダンなアレンジを加えて再構築する、そんなお菓子を作っています。
どこかで見たことがあるような、そんな安心できるお菓子の方を僕は買いたいって思うし、自分でも作りたいと思う。
メディアで注目を浴びるようなエッジの利いたものは、やりすぎないようにしています。“美味しかった”、“また食べたい”っていう評価につながるものを、作っていきたいですね。
菊地シェフの「クラシック」には、古さや野暮ったさは一切ない。それは、単に伝統を再現しているのではなく、シェフならではの「レトロモダン」なフランス菓子として、再構築しているからに他ならないだろう。その確固たるスタイルが、気品と洗練された印象を生んでいる。
ご実家が製菓店だったことから、パティシエへの道へと進むことになったという菊地シェフ。小さい頃はテレビアニメのアンパンマンを見て、パン屋さんになりたいと話していたと笑う。それでもやはり、ケーキ屋さんこそが生活の一部だった。
菊地シェフ:
両親が仕事をしているのをいつも見ていて、その映像がずっと記憶に残っています。
子どもの身長では大人たちが作業をしているところはよく見えませんでしたし、何を作っていたのかもわかっていませんでしたが、今思うとあれはあの工程だったんだなぁって思ったりしますね。お客さんとやりとりをしているのも見ていて、商売をするということも自然と体に染みつきました。
高校卒業後は製菓専門学校に通い、卒業後はル・サントノーレ・グループの棟田純一シェフに師事。東京・世田谷の「アルパジョン」、「ヴォアラ」などで5年ほど働いた。
菊地シェフ:
就職する前にいろいろなお店を見に行ったのですが、ここと同じものを作れるようになったら自分も一人前になれるんじゃないかと、棟田シェフのところでお世話になることにしました。その頃からいつか自分でお店をやろうと決めていて、そこで商売の基本を学びました。
仕事を一通り覚えたら、実力を磨くためにフランスに行こうと考えていたという菊地シェフ。
2003年には若手パティシエの登竜門、内海会ジュニア技術コンクールで金賞を受賞。それを機に、フランスではなく、東京屈指のラグジュアリーホテル「パークハイアット東京」へ移ることになる。ペストリーシェフを務めていた横田秀夫シェフ(現「菓子工房オークウッド」オーナーシェフ)に誘われたのがきっかけだった。
当時のハイアットはホテルランキング1位で、客室は常に満室。利用者が多く、朝から晩まで常に忙しく走り回っていたという。
菊地シェフ:
ずっと働き詰めで、あまりにも厳しい環境だったので、お昼休憩に出たまま今も行方がわからない人もいて(笑)。でも、あれを乗り越えた人と乗り越えていない人では、経験値が違ってくると思います。
街場もホテルもどちらもとても勉強になりましたが、身についたことの種類が違う。単純に自分のお店を持ちたいだけなら、ずっと街のお菓子屋さんでやっていく方が近道かもしれません。
でも僕は、あのタイミングでフランスに行かなくて良かったと思っていますし、ホテルを選んだことで人生が変わったと思います。
- Interview vol.2 へ続く -
プロの仕事vol.28 菊地賢一シェフ インタビューvol.1
© 2006 cotta. ALL rights Reserved.